「論語」から学ぶ、自律型組織と礼と魔術
「論語」から学ぶ、自律型組織と礼と魔術

「論語」から学ぶ、自律型組織と礼と魔術

戸惑いの組織

私は以前、地域のとあるボランティア団体にスタッフとして参画していた。

その団体で定期的に行われるスタッフ会議では、執行部より役員会議での決定事項の伝達や、今後の予定などについて話し合われた。その際の、執行部によるコミュニケーションがまさに旧来組織にありがちなもので、戸惑いを感じた。

戸惑いを感じたポイントは、以下の3つである。

  • 上意下達なコミュニケーション
  • 目的ではなく手段自体へのこだわり
  • 前例の踏襲

ミテモであればこれら3つは否定される、もしくは無視される。しかし、そのような論理により運営される組織がまだまだ存在し、そしてそのような運営に疑問を抱かない人々もまだまだ存在する、ということを実感するのによい経験であった。

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この経験を通じて、旧来組織になく自律型組織にあるものは、論語の「心」であり「礼」ではないか、と直感的に思い至った。

そこで、『身体感覚で『論語』を読みなおす。』を参照しながら、論語の「命」「心」「礼」という観点で、上記のような旧来の組織と、私が所属するミテモの自律型組織(まだまだ発展途上であるが)について紐解きたい。

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著者は下掛宝生流ワキ方能楽師の安田登氏。 高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学への関心に目覚めるという稀有な人物。『論語』などを学ぶ寺子屋「遊学塾」を、東京(広尾)を中心に全国各地で開催している。

論語に現れる「命」と「心」

この著書では、論語ではまず「命(メイ)」の世界があるとされる。命については、下記のように記されている。

命とは運命の「命」であり、宿命の「命」です。私たち人間にはどうしようもできないもの、それを古代人は「命」と名付けました。~中略~ 「命」ワールドの特徴は選択ができないということです。
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『身体感覚で『論語』を読みなおす。』P.8

「命」は”ただ自然のままに動いている秩序そのもの”であり、「命」の世界は神羅万象の秩序に支配されている世界としている。

さらに、加えて「命」を発することができるのは上帝(殷の時代の最高神)と王(象徴神である上帝の権威を現実世界に体現する神の化身・現人神)としている。

これを現代社会の旧来組織に当てはめてみる。旧来組織はヒエラルキーで構成され、組織の摂理「命」によって運営される。そこに所属する組織員は、自身で「命」を変えることができず、また変えられると思わない。また、「命」を発することができる立場のものは、発した「命」はそのまま実現されることを疑わない。

「上意下達なコミュニケーション」で良しとする発信者は、発信した「命」は疑われることなく実現されると考えており、そのような行為は普段から「命」の組織に慣れている証と考えられる。また、「手段自体へのこだわり」「前例踏襲」というのは、それら手段や前例が組織の「命」の摂理そのものであるため、「命」の組織員にとっては疑うことを知らないと考えられる。

ということで、「上意下達なコミュニケーション」「手段自体へのこだわり」「前例踏襲」は「命」世界において、実にまっとうな運用なのである。

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かたや、ミテモにとっては、「上意下達なコミュニケーション」「手段自体へのこだわり」「前例踏襲」は最も嫌われる運用である。

なぜならば、ミテモは「心(シン)」の世界の摂理で運営されているからと考えられる。

著書では、「心」について下記のように記されている。

「心」の世界とは、自由意志の世界です。 「命」は、ある。厳然とある。しかし「命」をそのまま甘受せず、時には変えていこうとする意志の力、それが「心」であり、その心によって創造された世界が「心」の世界です。
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『身体感覚で『論語』を読みなおす。』P.68

ミテモでは常に、いつも頭を使うこと、言葉を尽くすこと、違いを知ること、当たり前を疑うことを求められている。それらが表されたものが「ミテモの歩き方」である。

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よって、ミテモでは「上意下達なコミュニケーション」「手段自体へのこだわり」「前例踏襲」はまず疑われ、そもそもの目的に立ち戻ることが行われる。

また、ミテモの歩き方に「個を研ぎ澄まそう。火花を散らそう。」とあるように、個人の意思が大いに尊重される。ミテモでは、社員数50名ほどではあるが、マネジメント、プロデューサー、デザイナー、漫画家、映像エンジニア、シナリオライターなどなど、さまざまなバックグラウンドのメンバーがそろっている。それゆえに、共通の価値観を共有することが難しく、さらには個人の意思が尊重されるので、まとまることがさらに難しい。

しかしながら、そんなミテモでもチームワークを発揮し、さまざまなプロジェクトがアップデートを重ねながら進められている。それは個々人が「命」の段階から「心」の段階へ経るための「礼」をつくしているからではないかと考える。

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論語における「礼」

著書では、論語の「」について下記のように記されている。

 恭→がないと→労(心労)になってしまう  慎→がないと→蕙(考えすぎ)になってしまう  勇→がないと→乱になってしまう  直→がないと→絞になってしまう  「」は、二つの心的態度の間にあるブラックボックスです。~中略~があれば徳目になる心的態度が、がないと自他を苦しめるものになってしまいます。  心が苦しむのです。
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『身体感覚で『論語』を読みなおす。』P.183

どうだろうか。一般的な「」のイメージとは異なるのではないだろうか。ひとつずつ、ミテモでの実践とともに紐解いていきたい。

「恭」

「恭」は「恭(うやうや)しい」というように、相手に対する態度を示す。論語では、礼なき恭しさは、相手には形式的にとらえられ、理解されず心労となる、としている。

論語で孔子は、「恭」は自己で自己を支えるもの、としている。著書において、「恭」の古い字体は「龔」であり、これは「聖獣である龍に敬虔に帰依し、~中略~自分自身が龍と一体化し、そして龍として持ち上げられる」が原義ではないかとしている。

龍に敬意を払いながら、龍に依存することなく、自己と龍が対等に独立しー体になりえる状態、それが「恭」だと言うのだ。

ミテモでは地位や立場に依存したり、もしくは相手の地位や立場を慮って「恭しく」することは無い。もしくは無い状態を目指している。自ら立ち、尚かつ相手を尊重して接することが求められている。

ミテモの歩き方の「個を研ぎ澄まそう。」「言葉を尽くそう。」は、そのような態度を求めることを表している。

「慎」

「慎」は「慎み」「慎重」というように、物事に取り組む態度を示す。論語では、礼なき慎みは、考えすぎになる、としている。

ミテモの歩き方によると、慎重過ぎず、考え過ぎずに「まずは手を動かそう。」「混沌に飛びこもう。」しかしむやみに手を動かしたり、混沌に飛び込むのではなく、「いつも頭を使おう。」「構造を掴もう。」ともしている。

ミテモで提供する企業研修やワークショップは型にはまったものではなく、常に顧客の課題や参加者によってカスタマイズし、「ライブ」で行っている。また、新しい映像制作手法を試したり、生産性向上・業務効率化のためのITの積極的導入や、これまで培ったノウハウを新しい領域に応用する新規事業開発が盛んにおこなわれている。

ミテモでは保守的になりすぎず、かといってむやみやたらと挑戦するのではなく、常に構造化とカオスの間を行き来しながら、さらなる発展を目指している。

「勇」

著書では、論語においての「勇」は権力者の意志に反してでも、自分の信ずるところを貫くことに必要な「勇気」としている。論語では、礼なき安易な「勇」は、単純さ、あるいは盲信の裏返しでもあるとし、安易な勇による行動は、「乱」につながるとしている。

ミテモの歩き方では「勇」に関わる態度として、「もっと疑おう。」「もっと信じよう。」がある。上司や他のメンバーの考えに、すこしでも違和感があれば疑ってみる。他者の意志に反する自分の考えをもっと信じる、しかしながら、自分の考えを疑うことも忘れない。その疑い方としての「構造を掴もう。」

ミテモでは日々どこかで、プロジェクトのそもそもの目的の振り返りや、自分たちの信念に沿った議論が行われている。

「直」

「直」とは正直、素直のことを指す。論語では、礼なきただのバカ正直は、人を傷つける。孔子はそれを「絞」(首を絞める)という。

「本当のことを言って何が悪いの?」と言って、人を傷つけることをずけずけ言い、自分の正義を貫き満足すること、これを孔子は「絞」と言っている。(自分で書きながら、大変に耳が痛い。)

ミテモの歩き方では「直」に関わる態度として、「火花を散らそう。」「違いを知ろう。」がある。自分が信じることをもとに、喧々諤々火花を散らすことを恐れずにいながらも、違いを知る努力をし、さらなる高みを目指す。そんな切磋琢磨がミテモでは行われている。もしくはそんな状態を目指している。

以上をもとに、ミテモの歩き方をアレンジすると、以下のようになる。

  • 恭 「個を研ぎ澄まそう。」「言葉を尽くそう。」
  • 慎 「いつも頭を使おう。」「まずは手を動かそう。」   「構造を掴もう。」  「混沌に飛びこもう。」
  • 勇 「もっと疑おう。」  「もっと信じよう。」
  • 直 「火花を散らそう。」 「違いを知ろう。」

「心」の世界で意志を持ちながら、自分の心が苦しまずに、そして他人の心を苦しめずに、未来を切り開くことができる人間に必要なこと、それを孔子は「礼」と言っている。

ミテモでは、「ミテモの歩き方」がまさにミテモ流の「」を示していると考える。

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魔術としての礼

著書では、孔子時代の「礼」は現代の礼儀作法の礼にとどまらない、もっと大きな概念をもったものとしている。

古代の礼では、”神霊と交信するツールとしての礼”のほかに、”人間同士のコミュニケーションを円滑にし、人を動かすための礼”がある。

神霊としての交信ツールであった礼は、やがて人間社会にも応用されるようになり、人間同士のコミュニケーション・ツールになります。~中略~しかし、そうなってからでも礼には神霊とのコミュニケーション・ツールとしてのイメージが残り、それはむしろ、「魔術」に近いものとして受け止められていました。
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『身体感覚で『論語』を読みなおす。』P.202

見ず知らずの人間同士が「おはようございます。」と声を掛け合うだけで、お互い敵対関係にはないと確認でき、さらには意思疎通しあえそうな予感を感じさせる。

そのようにして意志を持つ独立した個人同士が、「礼」というコミュニケーションを通じて共同で何かを為す、さらには一丸となってよりよい未来を切り開こうとする、それ自体が古代では「魔術」だったのである。

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ミテモでは、部門を超えた、さらには社外のパートナーを巻き込んだ、さまざまなプロジェクトが日々動いている。もちろんそれらのプロジェクトは、関わるメンバーが共感し、目指したい目標がある故に取り組んでいるのだが、加えて、ミテモの歩き方に表出するような「礼」が駆動しているからではないだろうか。

そのような「礼」を魔術とするならば、ミテモの歩き方はさながら「呪文」であろう。

「早く行きたければ一人で進め、遠くまで行きたければ皆で進め。」という言葉がある。 孔子ならばさらに、「心と共に、礼を忘れずにな。」と付け加えるのではないだろうか。

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執筆者

Deeper ライターズ

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