即興するなんて嫌なことだ(前編)
即興するなんて嫌なことだ(前編)

即興するなんて嫌なことだ(前編)

シリーズ
ライター
公開日
Sep 30, 2021

そもそも即興とは?

「即興」に対応する英語は「Improvisation」(インプロヴィゼーション)です。この英語は比較的新しい言葉で、19世紀ころに英語に仲間入りしました。私が調べた限りですが(なので疑わしいですが)、日本には19世紀末までには辞典に載るようになっているようです。意味としては「前以テノ考へナシ二言フ」(袖珍英和辞典,1917年)とか「クチズサミ」・「即席ノ作」(和訳字彙,1888年)と説明されています。これはおおよそ今の私たちと同じような感覚ではないでしょうか?

つまり即興とは、「あらかじめ考えずに、準備もなしに何かを表現すること」と言えます。

そして、ここからが少し現代の特色でもあります。「コミュニケーション能力」とかが叫ばれるようになってから久しいですが、今や即興ができることはコミュニケーション能力が高く、臨機応変に物事に対応できることだ、そう感じている人も多いのではないでしょうか?

ですが、即興という現象は考えれば考えるほど意味がわからないものなんです。

例えば、私たちはふだん日常生活の中で人としゃべったり、ふれあったりしています。それも即興ですよね。誰がどういったタイミングで話すのか、相手が話そうとしているのか、好意的なのかどうかを判断して話す内容や話し方をあらかじめ考えているのではなくその場で柔軟に変えているためです。

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特に自分にとって都合の悪いことが起きたときはまさに即興の出番です。自分が持っている情報と、相手が知りえている情報をかけ合わせ、見事この場を切り抜けるためのストーリーを瞬時に即席につくり上げます。もちろん嘘だと大体はバレます。ですが、その時、確実に即興をしているといえると思います。

このように私たちの日常はグラデーションはあれど即興まみれと言えそうでもあるんです。むしろ即興なくして私たちの生活は成り立たないんじゃないかとすら思われるほどです。

しかし、それなのに即興は時に、非常に秀でた能力として見られます。こんなにも即興にあふれた生活の中であっても私たちは「即興ができるのは一部のプロフェッショナルのみだ」、「即興をすることは怖いことだ」と感じます。それはなぜななのでしょうか。

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なぜ即興することが嫌なのか?

実はこの問題はいろいろな角度から検討されています。本記事ではあまり踏み込みませんが、わざわざ人間の自発的な行動だけを「即興」という言葉で区別しはじめるのはおよそ18世紀ころからだという研究もあります。それを踏まえるとそもそも私たちが「即興」という言葉で語ろうとしているのは歴史的に300年程度であるといえます。

つまり、それより前はわざわざ「即興」と「そうでないもの」(正確に言えば、「即興」は「作曲でないもの」を意味していたのですが)を区別する必要もなかったという点で、人類史的にみればエキセントリックな価値観を持っている時期なのかもしれません(ただもちろん中世以前において即興や自発性に関する論考や研究がなかったというわけではないのですが、それはまた別の記事にゆずります)。

また、即興は一方でその技芸に精通していることの証としても考えられており、そうした意味で即興はプロフェッショナリズムを象徴するものとしても考えられていたようです。そうしたイメージも芸術家たちの仕事を確保するための努力のたまものでもあったそうなんですが(この話もまた別稿にゆずります)。

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即興のイメージが昔と今とでは異なるとはいえ、私たちの多くが即興が嫌だ、できれば避けたい、やらずに済むのであればそれが最善だと感じるのは事実ですよね。そうした人たちを「即興する能力がない」とみなすのか、「即興する能力を押さえつける能力がある」とみなすのかが、私のような即興を実践し、教える立場の人間にとって非常に重要な問題となるんです。本稿ではそのような問題についてインプロ(即興演劇)が教えてくれることについて述べていきます。

即興する能力を抑えつける能力

私が強く影響を受けたキース・ジョンストンのインプロ(即興演劇)の教育は、後述しますが先の分類でいえば即興ができないのは「即興する能力を押さえつける能力がある」からだという立場からの教育アプローチであるといえます。そのため、このアプローチは少し複雑な構図をしているように思います。つまり、教育によって後天的に身についた能力をまさに教育によって解体していく作業になるからです。かっこいい言い方をしてしまいましたが、一見矛盾したことをやろうとしていることが伝わりましたでしょうか?

では、教育によって身につけた「即興する能力を押さえつける能力」とはなんでしょうか?インプロではこの能力を「検閲」と呼びます。検閲とは、私たちの脳(特に人格や理性をつかさどる前頭前野)が行う、「自分で思いついたアイデアを表現してもよいかどうかを評価・判断する」能力のことを指します。インプロでは、この「検閲」という能力はおぎゃあと生まれた瞬間からあるものではないと考えています。この検閲する能力はあらゆる教育的営みとそれに伴うなんとなくの雰囲気から獲得されていきます。

例えば、「正解/不正解がある」という価値観です。それまでは自由に歌ったり踊ったり描いていたりしても「教育」となると途端に「正しいものと間違ったものがある」ということを学びます。特に芸術の分野におけるダメージは大きいものになります。表現を楽しむのではなく、自分の表現が正しいのか正しくないのかに捉われてしまうからです。それにうまく適合できれば良いのですが、もし、辛い思いや悲痛な経験をしてしまった場合、「私には才能がない」、「表現することは怖いことだ」という学習が促進されます。

もちろん好き勝手やればいいというわけではありません。歴史と知の蓄積がありますから、その情報へアクセスすることは非常に重要なことですが、そのモチベーションが「楽しいから」ではなく、「正しくありたいから」だと苦しいし続かないのです。

あとは、なんとなくの雰囲気です。学校および家庭や地域でのかかわりの中で、人は文化や社会のルールになじんでいきます。この文化やルールから、自分が表現されたものに対して「みっともない」、「下手だ」、「不適切だ」などの評価を下されることでも先の学習はなされます。ここで厄介なのはその時の評価は教師や親などの明らかな権力者からだけではなく、友達やクラスメイトたちの間でなんとなく行われることもあるという点です。なんとなく感じ取ったことなので、「○○に言われたからそうする」という意識がはたらきにくく、自発的・主体的に表現を押さえ込むようになります。そうすることで「私は表現することが得意でない人だ」とか「表現とかダサいと思う」人格が形成されていきます。

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さぁ、もうこうなったら即興は困難を極めます。なぜなら「正解なのか不正解なのか」、「社会的に適切なのか不適切なのか」という検閲を行うモチベーションはもっぱら不安や恐怖だからです。不安や恐怖は筋肉を緊張させ、柔軟さを失わせます。そして、検閲をさらに強めてしまうことも加わって表現するまでに時間を要します。いざ表現をしようとしても筋肉がカチコチなので思ったように動かず、またさらに不安と恐怖に拍車をかけます。そうして盛大にきまり悪く失敗し、その経験が表現することに対してまたネガティブなイメージを積み増しします。こうした負のスパイラルが回り始めると即興なんて一種の有罪判決に聞こえることでしょう。なぜこのような罰を受けなくてはならないのだ、最悪だ、となるわけです。

このように特に現代では表現への監視や、成功志向の強さも相まって即興することは成功者だけに許されたことであり、能力のない人や頭の悪い人、お勉強の足りない差別的な人にはできっこないものだ、許されないものだという通念ができあがりつつあります。そうした中で即興することのリスクはずいぶんと高まっていることだろうと思います。常に適切で、いい感じのことを表現しなくてはならないというプレッシャーは、不安や恐怖を助長し、検閲を促進させることで即興を抑え、そして、即興的表現から得られるはずだった学習を犠牲にして身の安全を確保します。これでは学んでいるのは「うまいことお咎めを受けないやり方」だけじゃないかなと思います。

では、即興をしてもらうにはどうしたらいいのかということについて、後編にて書いていこうと思います。

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