ポジショントーク! AI時代の語学学習論
ポジショントーク! AI時代の語学学習論

ポジショントーク! AI時代の語学学習論

公開日
Jun 29, 2021

語学学習は不要?必要?

私は、正直言って英語が苦手である。大学入試では英語は使ったし、その後も仕事で時々は使っていたが、流暢というレベルには遠かった。具体的に、読む・書く・聞く・話す、の4技能で分けたときに、話す、が辛い。頭にまったく言葉が浮かばないのだ。その次に、読むのが苦手だ。英文を読んでいて知らない単語が続くと、もうお手上げ。辞書を引く元気も出ない。

そんな私にとっては、Google翻訳 や、DeepL に代表される、文章翻訳ソフトウェア(以下、便宜上AI翻訳と記す)の劇的な進歩と普及は、大変にありがたい。外国語文章があったら、何も考えずにAI翻訳に流し込めば、ほどほどの精度の和文で読める。もう、読むに関しては困らなくなった。 また今後、外国語を話す必要があるとしても、それが「外国語音声データがあれば済む」のであれば、音声合成ソフトで事足りるかもしれない。たとえば Speechelo は海外の音声合成サービスだが、試しにサンプル動画を流して聞いてみると、とても合成音声とは思えないクオリティの高さだ。AI翻訳と音声合成ソフトを組み合わせれば、外国語を話す能力も代替されるかもしれないのだ。

このような状況の中で、私は 「AI翻訳性能が劇的に高くなっていく時代において、もはや語学学習は不要なのか? それとも、引き続き語学学習は必要なのか?」 という問いについて考えてみたくなった。以下、それを綴っていく。

まず最初に、この問いに関するWeb記事を、参考に2つほど貼っておく。

ここに挙げている以外にも、いくつかのWeb記事を読んでみて感じたことは、以下の3つである。

①学習必要論も不要論も、ポジショントークになる ②AI翻訳が進歩しようとも、学習それ自体の楽しみと、異文化理解手段としての語学学習の意義は残る ③AI翻訳を使っても、発信内容と表現に責任を持つのは当面は人間である

それぞれかんたんに説明したい。

①学習必要論も不要論も、ポジショントークになる

日本だけをとってみても、語学ビジネス市場は大きい。年間8,762億円(2020年、矢野経済研究)と推計されている。

これだけのお金が語学ビジネスという領域には流れている。

したがって、現在語学学習に携わる事業者は、もし仮にAI翻訳が自分たちのサービスの代替品として、自分たちの市場を破壊する可能性があるなら、それに抵抗するのが自然な振る舞いになる。ゆえに、「いくらAI翻訳が向上しても語学学習は必要である」という論調のポジショントークを行う。

逆に、AI翻訳市場をこれから開拓する事業者にとっては、自社サービスが語学学習市場をリプレイスして、そこに流れるお金を持ってくることが狙うとするなら「もう語学学習は不要です」という論調のポジショントークを行うことになる。

つまるところ、AI時代の語学学習不要vs必要論は、誰がそれを言うかで論旨が全然変わってくる。これらの論は、発信者の立場を見れば、結論がほぼ分かってしまうのだ。

②AI翻訳が進歩しようとも、学習それ自体の楽しみと、異文化理解手段としての語学学習の意義は残る

語学学習には、「能力習得」の側面のみならず「学びそれ自体の楽しみ」と「異文化理解」という側面がある。仮にAIが進歩して、人間が翻訳能力を習得する必要性が劇的に下がっていくとしても、個人が感じる「学びの楽しみ」と「異文化理解」の価値が失われるわけではない。他者に対する自己顕示欲の発露としての学びの動機はなくなっていくかもしれないが、それはむしろ健全なこととも言える。

学びそのものに没入する喜びや、あるいは以前できなかったことができるようになる喜びは損なわれない。そして、言語学習を通じてほかの国や地域の人々のものの見方を知ることは、それこそグローバル化が進む時代において意義はある。

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この議論は、語学学習に限らないだろう。たとえば、車の運転技術の学習。これについても、実用目的での能力習得の側面と、運転を体得することそれ自体の楽しみの側面がある。今後、自動運転技術が進歩していき、法制度の面もそれに追随し、最終的にプロの競技ドライバー以外は運転能力獲得が不要になる世界が来るかもしれない。

でもそのときでも、「手動運転」の楽しさを捨てたくない人たちはいるはずだ。公道では運転できなくなっているかもしれないけれど。

あるいは、車の運転に興味を持つところから、たとえば車の構造などの理学・工学的な関心が高まっていくひともいるだろう。それが、そのひとの将来のしごと(研究者やエンジニア等)に繋がっていく可能性もある。

③AI翻訳を使っても、発信内容と表現に責任を持つのは当面は人間である

仮に私が書いているこの記事の文章を自動翻訳ソフトに流し込めば、英語の文章が一瞬で生成される。それを、英語版記事としてウェブに乗せることもすぐできる。しかし、もしその英文に致命的な表現のミスや、倫理的に許されない表現が入ってしまっているとしたら。それを読んで、抗議をする人に対して、私が「それは私がやったミスではなく、AI翻訳のミスなので知りません」と答えることはできるだろうか? おそらくその答えを出したら、ますます炎上するだろう。なぜなら、その記事の著者は私であるし、執筆責任は私にある。そしてメディアが掲載しているのなら、掲載責任はそのメディア(や運営企業)にある。であるのに、執筆、掲載の責任を一切果たしていないことになるからだ。 著者である私や、掲載メディア編集者は、AI翻訳を使うとしても、最終的にその表現に責任を負う。それが分かっている以上、「AIを使えば多国語発信もかんたん!」とはならない。

この例も、実は車の運転に近い部分があるといえる。仮にいま自動運転車が事故を起こしたら、誰が責任を取るのか。 以下記事では、日本では、警察庁有識者検討会で議論がされていて、その中で無免許/無人走行も視野に入っているという情報があるが、明確な責任所在に対する結論は出ていないようだ。

AI翻訳に話を戻す。仮にAI翻訳を使って出た結果で問題が起きた時の責任について、「元の文章の執筆者が負う」と現在の常識ベースで考えるなら、AI翻訳の使用には慎重になる。それを使うとしても、ネイティブスピーカーによるチェックなどの手間とコストを掛けざるを得ないことも多いだろう。

しかし(思考実験として)もし「翻訳文のミスはソフト側に責任がある」という慣習になったらどうだろう? 急速にAI翻訳が使われる場面が増える可能性もあるのではないか。

以上、私が感じたこと3つについて説明した。

私のポジショントーク

私の意見としては、AI翻訳精度が向上していけば、実用面では語学学習はほぼ不要になると思っている。 だが、上に述べたように、学習の楽しみ、異文化理解の意義と、発信責任については当面なくならないとも思っている。ただし、私がそこまで学習に価値を感じて日々熱心に語学を学んでいるわけではないのは、ここまで書いてきたとおりだ。もし本当に熱心な学習者だったなら、もう少し英語が得意だっただろう。

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最後に、私の意見もポジショントークであることに言及しておきたい。

私自身はテクノロジーがこれまでの人類社会を発展させてきたことに確信を持っているし、これからの時代もそうなるであろうことを予期している。いわば広義のテクノロジー楽観論の立場だ。 ゆえに、AI翻訳が私の外国語活用ハードルを、消滅させてくれることを好意的に捉えるし、それを補強する情報に目ざとい。

ただし、その視点だと、気づかないもの、見落としがちなものもある。そこに意識的にアンテナを張っておくことで、自分の持たない知恵に触れられる可能性がある。それを楽しみたい。

私は能力習得としての語学学習は諦めた。だが、広い意味での学びに対する好奇心は持ち続けている。

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